山岸謙太郎×松本陽一(5)

※2019年11月25日、某所にて

山岸謙太郎×松本陽一(5)

ヤマケン少年とカメラ

松本
ちょっと…順序がごちゃっとしちゃうんですけど、歴史みたいな話をしたいんですよ。
山岸
どういうことです?
松本
つまり、山岸監督が初めから映画監督を目指したのかどうかもわからないですけど、この世界に入ったきっかけなんかを聞いてみたくて。そういうものから、映画を撮っていくことになったとか、プロジェクトヤマケンを立ち上げたとか……。
山岸
あぁ、そういう歴史をね。どこから話します?
松本
どこからでも。なんなら5歳からでも良いです。
山岸
5歳から(笑)?
僕、プロジェクトヤマケンを立ち上げるまで、自分は全く映画に興味なかったし、それこそ興味ないまま、流れるままにプロジェクトヤマケンをやることになっちゃった!っていうのが正直僕の中にあるんですよ。
松本
巻き込まれ型みたいな事ですか。
山岸
そうです、そうです。元々映画監督を目指してたつもりも無いし。
松本
無いんですね。
山岸
ええ。ただ、過去を振り返ると要素は存在してたんです。僕らの子供の頃って、ビデオカメラは無かったじゃないですか。
松本
まあ、一般家庭には無いですよね。
山岸
だから、幼稚園とか小学校の頃の動画の記録は無いはず。ところがうちの親父8ミリフィルム(カメラ)を当時持っていたんです。俺、子供の頃8ミリフィルムで自分のいろんな姿を撮ってもらっていて、それをご飯食べた後に家族みんなで、電気消して投影して見るっていうことをやってたんですよ。
松本
フィルムですよね?あのカタカタいうやつ。
山岸
はい、そうです。
松本
それもう、映画監督のエピソードとしては最高の部類ですよ。
山岸
いやもう、本当にビックリ。今思えばそうだったんですけど、昔は別に映画監督になろうとは思わなかった。それに気付いたのはここ最近ですよ。そういえば物心付いた時からフィルムがある環境にいたし、親父がフィルムを切ってセロファンテープみたいなものでくっつけて編集しているのを見てた。

松本
本当にそれ、映画監督のベースとしては最高ですね!
山岸
確かにそうですね(笑)。子供の時に僕も、親の見様見真似で、8ミリフィルムで遊んでて、当時ゾイドっていう……
松本
何でしたっけ、ゾイドって。
山岸
おもちゃです。動物が機械になっているおもちゃなんですよ。
松本
トランスフォーマーみたいな?
山岸
そうそうそう。ゴリラのゾイドを一コマずつちょっとずつ動かしてウルトラマンと戦うってのを撮ってるんですよ。
松本
あ、コマ撮りみたいなやつだ。
山岸
ゾイドは関節がちゃんとあって細かく動くんですけど、ウルトラマンは肩しか動かないんで、すごくシュールな映像になっているんですけどね。
松本
それを8ミリで撮ったんですか。
山岸
小学生の時に。
松本
(8ミリで)コマ撮り出来るんですね?
山岸
カチカチカチってトリガー引けば撮れたんで、そのやり方を親に教えてもらって……。それが初めて撮った映像です。
松本
塚本(晋也)監督の『鉄男』(1989年)の手法みたいだ。
山岸
確かにそうですね。今思えばそんな事もやっていたし、その後、中学生になった僕は、鳥山明に憧れてマンガ家になりたくて、マンガをいっぱい書いていたんですよ。それと同時に、ゲームも好きだったんで、チラシの裏にボードゲームを書いて。
松本
ほ~!
山岸
チラシの裏はちっちゃいんで、絵を書くとかマンガやマンガの設定を書いたりしてたんです。それと、大きいカレンダーあるじゃないですか。
松本
はい。
山岸
月に1回大きい紙が手に入るんですよ。それは、もうボードゲームを作るための紙で、そこにボードゲーム、それも結構ルールが特殊で……ここに来たらこのカードを引いて、とか……。
松本
山岸監督っぽいな~(笑)。
山岸
ふふ(笑)。ヒットポイントチップとかもあって、これが無くなったらゲームオーバーとか。ボードゲームをとにかく作ってましたね。だけど、中学の時にいよいよ世の中にビデオカメラが出回りはじめたんですよ、浅野温子さんが「パスポートサイズ」って言ってるCMも流れてて。
松本
ああ、あの時代なんですね。
山岸
Hi8(ハイエイト)ってやつなんですけど。そのカメラを中学の友達の親が持っているのを聞きつけたので、何とかして借りて来てもらって、友達と『あぶない刑事』みたいな映像を撮りましたよ。
松本
へ~、中学生で。
山岸
中学生が、ヤクザと警察との抗争の話を(笑)。
松本
あ~(笑)。アクション映画ですか?
山岸
アクション映画でしたね。しかもそのタイトルが『バトルプロジェクト』ってタイトルだった(笑)。俺、プロジェクトって付けるの好きだな~って思って。
松本
近いですね。内容は?
山岸
ジャッキーチェンとあぶない刑事が混ざったような、無意味に2階の屋根から飛び降りたり。
松本
ジャッキーチェンに憧れがある世代ですもんね。
山岸
そうですね。それまでに見た映画といえば、ジブリかジャッキーチェンかみたいな世代だったから。

ボードゲームからデジタルのゲームへ

松本
その頃って、そろそろ将来を、職業を決めないといけないくらいですよね。
山岸
そうですね。でも僕は、実家がおじいちゃんが始めた家具屋なので、中学の時まではその会社を、継ぐっていう考えでいて。
松本
ボンボンみたいな(笑)。
山岸
本当にボンボンみたいな考え方でしたね。それほど裕福な家ではなかったですけど、社員さんもいるし、家を継ぐんだって思ってました。僕、中学の時にサッカー部に入ってたんですけど、押井守監督がやっていた『機動警察パトレイバー』という作品が見たいがために、僕はサッカー部を退部しまして。
松本
おや。
山岸
部活の時間にやってたんですよ。
松本
意外な所で押井さんとの出会いが。
山岸
そうなんですよ。『パトレイバー』を見たいって理由で辞めたものの、その後、何か部活に入れって言われて、科学技術部ってところに入ったんです。そこにいた奴らが今で言うオタクなんですけど、凄くウマがあって、一緒にゲーム作ろうぜって話しになって、そこで『ファイナルファンタジー』みたいなゲームをみんなで一生懸命作ったんですよ。
松本
そのゲームっていうのはパソコンで作ったという事ですか?
山岸
そうです。
松本
ボードゲームの時代がありましたけど。
山岸
えぇ、ボードゲームからついにデジタルのゲームになりました。
松本
もうパソコンでそういうの作れる環境がありましたよね。
山岸
僕のおじさんがセイコーエプソンに勤めていたんで、そこから古いパソコンが我が家に流れてくるという環境だったんですよ。
松本
じゃあ、当時貴重だったパソコンも手に入ってたんだ。
山岸
なんとなく小学生の頃から雑誌に載ってたプログラミングを真似したりして、数当てゲームみたいな簡単なゲームを自分で作って遊んだりしてたんです。それもあって、中学校の時に部活の仲間とゲームを作って、それでグランプリを取るんですよ。
松本
なんの?
山岸
中学生高校生プログラミングコンテスト。
松本
プログラミングのコンテストがあったんですね。
山岸
ありましたね。その時メインプログラマーだった服部君がとんでもない天才で、彼がほぼ1人でプログラムを組んで、僕は脚本を書いたんですね。彼は今、数学学者になっています。もの作りって意味では、そこでゲームを作るっていうのは(やってました)
松本
ゲームで脚本(を学んだ)みたいな感じですか。
山岸
ああ、確かに。
松本
子供の頃から、ガキ大将とか、リーダーシップを取るようなところはあったんですか?
山岸
ないですね。ないと言うか、学校ではないです。やっぱり力の強い奴らには敵わなかったりとか、頭のいい奴らには敵わなかったりしてたんで。でもやっぱり長男なんで、家に帰れば内弁慶で、弟や妹を連ねたりとか、あとは自分の狭いコミュニティの中では常に僕が中心で遊びを考えて、っていうのはやってました。
松本
ボードゲームを作るってそういうことでしょ、やっぱり。
山岸
ガキ大将にはなってないですけど、それでも自分が作ったボードゲームを学校に持っていって、昼休みなんかにみんなでやろうぜ!って人を集めてやるっていう形を作るのって、ある程度やっぱり(そういう素養が)

松本
そうですよね。僕も似たようなものを作ったことがあるんですよ。ドラクエみたいなアナログのゲームを。
山岸
おお~、はいはい(笑)。
松本
ボードゲームじゃないんですよ。マス目のあるノートで、いわゆるドットを全部自分で書いたんですよ、森とか城とか。サイコロ振って進めるて、いくつかのマスに敵が出てくるとかの条件があるんですよ。単語帳に敵が書いてあって。今のカードゲームみたいなもんですかね。
山岸
それはテーブルトークRPGですよ。(テーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム。少人数で集まって、進行役と登場人物役を演じながら、サイコロと会話で物語を作る遊び)あ~、やっぱやるんですね。僕ら『ドラゴンクエスト』とかのゲームが入ってきた世代だから、ものを作るっていう意識がある人って多分一回ゲームとかに行くんですかね。
松本
かもしれませんね。
山岸
その後、高校に進学して……たまたま行った高校が電気科ってところでいわゆる電気回路とかの勉強をしてたんです。
松本
工業高校?
山岸
工業高校です。学校にパソコンもあって、ゲームを作るってことにより磨きがかかっていき、そこでも結構ゲーム作りましたね。
松本
そしたら将来、ゲームクリエイターとかになってそうですよね。
山岸
そうです。僕、高校の時に、ついに家を継ぐことをやめるんですよ。

(つづく)