水曜コラム②映像演技、舞台演技とは?

映像の演技とは?

絶賛上映中の映画「ディープロジック」(金曜までだよ観てね!)の感想で、演劇っぽい演技というのがあった。よく映像演技とか、舞台演技とか言うけどどういうことなんだろうと改めて考えてみる。

ディープロジックに話を戻せば、出演者は劇団6番シードメンバー含めて、ほぼ全員普段は舞台を中心に活動しているいわゆる「舞台役者」または「小劇場役者」と呼ばれる人達である。だから私も最初は「濃いめの演技にならないほうがいいんだろうな」という思いで撮影を見守ったものである(ちなみにディープロジックの演出は山岸監督ですもちろん。私は全くというほど演出には関わっていません)。分割撮影、上映していた頃は、出来上がったものを観ても濃ゆいなあとか、舞台っぽいなあとかは全く思わなかったんだけど、今回2時間の映画となり、映画館で上映されたのを見ると、

確かに舞台っぽい。という感覚は少しあった。

とはいえ「映像は薄めの演技」「舞台は濃いめの演技」と括られるのは私は嫌いだし、事実ではないと思います。映画でもテレビドラマでも濃ゆい演技は花盛りだし(半沢直樹とか)、まあ時代劇ですがこないだ見た映画「キングダム」の主人公はめっちゃ濃い演技でしたね(僕は好きでした)。是枝監督の作品のように、監督や作品のカラーとして薄め、素っぽい演技演出があるとは思うけど、イコールそれが「映像の演技」とは思わない。

舞台の演出でもそうなんです。舞台は空間が広い、生声なので大きな声をまず出す、と思われそうですが、案外に張らない、いわゆる映像っぽい芝居をしていることはあります。そういうカラーの演出家さんもいます。声を張らない時に私はよく「映像っぽくやって」とわかりやすく伝えますが、その時の声は本当に小さい声、小さい芝居です。舞台演出手法としては、小さなつぶやきで逆に観客に「聞きに行かせる」というのがありますね。
それくらいのボリュームでもキャパ200くらいまでなら通用します。300超えるともうひと工夫必要にはなるのですが。
舞台で言うとボリュームよりも「通す意識」なんですね。だから自然大きくなるようなところはありますが。

そんな話を監督にしたら、確かにディープロジックに出ている舞台俳優さんは映像の俳優さんと違うところがあったし、それを踏まえて演出したとのことでした。面白かった話は「サービス精神がすごい」「画面のどこにいてもとにかくたくさん演じてくれる」「つまり演技の情報量が多い」みたいな意のことを監督がおっしゃっていて、なるほどそこか、と思いました。

舞台では舞台上にいる間、ずっと見られていますから、とにかくずっと集中力も切らせないし、セリフがなくても「聞く」という演技をしっかりやっています(実はこれ難しいのですが)。その習慣がついた人たちが当たり前のようにカメラの前で喋り、聞くだけで「情報量が多く」なるのかと。そうやってみたら確かに藤堂とかも濃いなあと思えてくるし、かなり抑えた演技をしてるなあと思っていたツチヤ警部の土屋も、もっと情報減らせたかも、とは思いましたね。あと舞台っぽいの代名詞の役は椎名とガラさんでしょうな。勿論監督も狙って演出していますが、新聞紙ひっくり返す女優あんまりいないと思う笑。

もうひとつ。舞台は観客の目線誘導も役者の仕事と言っていいです。観客は広い舞台を好きなように見ていいわけですが、聴かせたいセリフ、見せたい表情など、良い役者(や演出家)はそれをさりげなく誘導してるのです。古くは歌舞伎の見栄切りはカメラのズーム効果だし、「声」か「動き」でひきつけたり、パスを出したりします。さっきの「聞きに行かせる」もそのひとつですね。ところが映像はそれはカメラの仕事です。ほぼ100パーと言っていいんじゃないかな。違うかな。映像演技にも少しは目線誘導はあるのかな(勉強中)。カメラが動いたり、寄ったり、編集で割ったり、して役者の演技を切り取る。だから理論で言えば映像演技に観客の目線誘導の意識はなくていい。だけど舞台俳優はそれが染みついているので、その誘導する意識(例えば惹きつけようとか、話者の後ろの絵をもう少し埋めようとか)が結果「濃い」「情報量が多い」感想につながったのかもしれませんね。
あとその空間全体の空気を作るのも舞台俳優の意識にはあります。その空気作りの意識は監督も大いに感心していたと記憶してますし、それは良い方向に行ったと思います。

そんな訳で映像演技と舞台演技、確実に違いはありますが、濃い薄いで話すことではないんだろうなあと思います。
でも俳優って大変だね。映画、ドラマ、舞台、とアウトプットが違う畑があって、さらに演出家の嗜好、思考の違いで演技の幅を作っていき、最後は自分のカラーを出していく。

仕事量は結局多いのですな。

トムコラム